ラブホテルでアルバイトをしていた頃、建物を全面改装するということで、工事の期間中、館内の電源をすべて切ったことがある。真昼だったが、照明の落とされた館内は薄暗くなり、建物の性質上、決して多くは設えられていない窓からさしこむわずかなひかりのなかで、ものしずかに浮きあがる控え室の光景が、すでに夕暮れ時の色調に染めぬかれているのを目の当たりにし、変に心細い気持ちになった。

 だが、それ以上に印象に残ったのは、業務用の冷蔵庫や冷凍庫、冷房その他多くの電化製品の電源が落とされただけで、こんなにもしずけさがきわだつことになるのかということだった。おもてを歩くひとの靴音や話し声、鳥のさえずりまでもがきこえるそのしずけさにあてられて、実際、従業員のだれもが、その後、変に気後れして、しばらくは小声で会話を交わしたほどだった。

 たとえば、被災地の暮らしというのは、案外、このようなしずけさに包まれているものなのかもしれない。

 

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 二十代のころ、一日かけてどこまで歩いていけるかというひとり遊びを、何度かやった。京都市内のアパートから出発して、長岡京を経由して大阪の高槻まで歩いたこともあるし、宇治市まで行って戻ってきたこともある。滋賀まで歩いたときは、自動車だと通行料金をとられる近江大橋を徒歩で渡った。その先のイオンモールで夕飯をとると、すでにあたりは真っ暗だった。目的地があるわけでもないし(観光地に立ち寄ることなどはいっさいなかった)、当時はスマートフォンも持っていなかったので、道路標識をたよりに、なんとなく知っている地名にむけてただ歩きつづけるという、行き当たりばったりの、仮に目的があるとすればこれ以上はもう歩けないという体力の限界こそがそれであるような、ある種自傷的ともいえるその遊びの趣旨に沿うかたちで、結局そのまま、湖岸沿いの道路を歩き続けることにしたのだったが、この湖岸沿いの道路には街灯がほとんどなかった。

 歩きつづけるうちに、体の疲れや足の痛みそのものよりも、胸の変にそわそわするようであるのが気にかかった。その胸騒ぎがなにを意味しているのか、最初はよくわからなかったのだが、遠くにみえる街灯や、ときおり通りかかる車のヘッドライトを目にするたびに、幾ばくかはやわらぐようであるその反応から逆算するかたちで、じぶんがほかでもない暗闇に恐怖をおぼえていることを自覚するにいたった。いま仮に車で拉致されるようなことがあってもだれも助けてくれないなとか、ひき逃げされてもだれも病院に運んでくれないなとか、あるいは薮から飛び出した獰猛な動物に襲われても気づかれないままだろうなとか、暗闇を前提として成立するそのような事態にたいする恐怖ではなく、暗闇そのものにたいするどこまでも純粋な恐怖だった。

 それは、これまでのじぶんが知っている恐怖とは、どうにも性質の異なるものだった。これほどまでにおそろしいのに、どうしてじぶんがいま現在無事であるのかと疑問におもわれる瞬間が何度もあった。奇妙な話だが、抱えている恐怖と釣り合わないみずからの無事が、どうしても納得できないというふうに感じられたのだ。こんなにもおそろしいのに、まったくの無傷、まったくの無事である、そんなおかしい話があるだろうか、と。

 

 五年近く住んでいた京都のアパートをひきあげる前夜、サロンパスのスプレー缶を処分するために、部屋の外に出て、残っていた中身が空っぽになるまでスプレーを噴射しつづけた。サロンパスのスプレーは新品同様で、だから中身が空になるまでには、けっこうな時間がかかった。残暑のまだまだきびしい、風のない夜だったために、サロンパスのあの独特のにおいは、屋外にもかかわらずどこにも運ばれることなく、その場にたちこめてわだかまり、地面に直接尻餅をついているこちらの目や鼻にしみて仕方なかった。

 

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  友人とふたりで香川県の離島をおとずれたときのこと。

 香川県にはいくつも離島があり、その中には現代美術界隈で有名なあの直島もあるのだが、変にあまのじゃくなところがあるわれわれは、よりによっていちばん退屈そうな島を選び、そこで午後のひとときを過ごすことに決めた。本数の多くないフェリーで島に渡ってみると、実際、本当に退屈そうな島だった。坂道以外なにもないのだ。

 電動アシストの自転車を借りて、急坂をのぼって展望台をたずねたあと、おなじ坂を今度は、ほかに行楽客のほとんどいないのをいいことに、スピードをぐいぐい出して、飛ぶように駆けおりた。こちらの前を走る友人の、そのとき羽織っていた白いシャツが風をはらんでふくらみ、翼のようにひろがっているその上に、ときおり頭上をかすめるほどである木々の枝の、その隙間から漏れたひかりが落ちて、まだらな模様を作りあげていた。めまぐるしく動きまわるその模様をながめているうちに、強烈な多幸感があふれはじめ、なぜかはわからないが大声で笑った。そのとき、「木漏れ日が美しい」とおもった。

 木漏れ日が美しいのは、しかし、当然だ。夕焼けが美しいのも、星空が美しいのも、やはり当然である。はるかむかし、木漏れ日をまえにして、これは美しいと口にした人間がいた。その言葉には、なるほど、たしかな説得力があった。言葉は多くの共感を得て横に広がり、時代を超えて縦に伸び、そうしてある種の決まり文句となって現代にもいきわたっている。

 だから、実際に本心からそう感じたかどうかは別として、木漏れ日や夕焼けや星空をまえにしたとき、ひとはまるでそうすることが一種の礼儀であるかのように、美しいと口にすることになる。そう口にしないと、どうにも落ち着かないほどだ。

 離島で見た木漏れ日にたいしての所感は、けれども、そういうものではまったくなかった。あのときこちらがたしかに感じた木漏れ日の美しさは、木漏れ日をまえにしてはじめて美しいと口にした人間がそのとき発見した木漏れ日の美しさと、おそらくほとんどおなじものだった。

 

 写真でしか知らないひととじかに会うことになったとき、初対面のあいさつをそつなく交わしながらも、想像とはちがった相手の声色に内心でおおいに戸惑ってしまうことがある。そのたびに、じぶんはいったいどういう声色を思い描き、期待していたのだろうかとふしぎにおもう。

 

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 回転寿司屋に一度だけそろっておとずれたことのある女性の、マグロユッケの軍艦巻を好んで食べているそのようすを見ているうちに、それまでは色物な気がして食指の動かなかったのが、なんとなく口にしてみようという気になって、以来、店をたずねればかならず注文する一品になった。流れるレーンから皿をとるさいに、ふと、さして親交のあったわけでもない彼女の、呼び名こそまだたしかであるもののフルネームはすでにおぼつかない、その顔かたちをぼんやりとおもいだすことが今でもある。

 

 ポケモンに熱中している姪っ子が、大好物のイクラをスプーンですくいながら、おなじ食卓にならんでいたサーモンのほうに目をやり、「これ、イクラの進化形?」とたずねた。同席していた父は、「死にかけ? 死にかけちゃうちゃう」と応じた。

 保育園児だったころ、家族そろって出かけた先で、自動販売機のカップヌードルを買った。すでに湯のそそがれたものと思い、受け渡し口に手を差し入れた母の、その甲を熱湯が打った。寝ても覚めても昆虫の話しかしなかった園児のこちらは、水ぶくれのやぶけて痛ましいその手をながめながら、ぼくも脱皮したいとうらやましそうにいったという。

 スーパーファミコンの『スーパーマリオワールド』を、発売されてまもないころだったとおもうが、実家の居間でプレイしていたとき、当時まだ保育園に通っていた弟に、なんとなくコントローラーを差し出してみた。「やってみる?」のつもりだったわけだが、弟はみるみるうちに不安に駆られたような表情を浮かべて、首をぶんぶんとはげしく左右にふった。

 その拒絶の度合いが、子供心になにかとても残酷で愉快な味わいをもたらすものだったらしい。画面の左端に位置するマリオのもとに、画面の右端から敵キャラクター――「ドラボン」という名前の、まぬけな面構えをした、二足歩行の竜だ――が接近しつつある状況を作り出してやってから、ふたたびコントローラーを差し出すと、弟は先ほどよりもいちだんと強い拒絶の身ぶりをとった。おまえがやらないのだったら知らないといわんばかりに、コントローラーをたたみの上に投げ出してわれ関せずをよそおうと、弟はせまりつつある危機をしきりに訴えたあげく、やがて、いてもたってもいられないとばかりのほとんど悲愴なようすで、みずからコントローラーをひろいあげた。

 とはいえ、マリオを窮地から脱してやるための、肝心のその方法が、幼い弟にはわからない。パニックになりながらいくつかのボタンを連打してみたり、あるいは、かたくなに腕組みして動かないこちらの手元にあらためてコントローラーを押し付けようとしてみたり、そうこうしているうちにも、ドラボンはマリオのそばにむけて、てくてくと着実に近づきつつある。両者がもうあとすこしでぶつかるといういよいよの瞬間、弟は悲鳴をあげてコントローラーをその場に放り出すと、居間から勢いよく飛び出して、トイレの中に駆けこんだ。そうしてしばらくのあいだ、母の説得もむなしく、内側から鍵をかけたまま外に出てこようとしなかった。

 

 めずらしく雪が積もったので、めずらしく市バスに乗っていた。鴨川に架かる橋にバスがさしかかったところで、車窓越しにのぞむ河川敷の雪化粧を認めた乗客らの口から、おもいおもいの歓声がちいさいながらもいっせいにあがり、窮屈ではない連帯感がいっしゅん生まれた。見知らぬ隣人に気安く声をかけることも、いまだけはきっと許されることを、そのとき車内の誰もが理解していた。

 

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 中学生のころ、熱帯魚の飼育にずいぶんと凝っていた友人が、父親の大工仕事を手伝って小遣いを稼ぎ、一匹で五千円だか一万円だかするアジアアロワナの稚魚を、商店街にあるペットショップで買った。うまく成長すればものすごく巨大になるのだと、そのときにそなえておおきな水槽を買うお金だっていまのうちに貯めておかなければならないのだと、たいそうはりきっていた友人だが、飼育はむずかしく、稚魚はたしか一ヶ月もしないうちに死んだ。

 友人はアロワナの死後、父親の仕事場で、大工道具とあまりものの木材を利用し、手のひらにのるおおきさの、直方体の木箱をこしらえた。綿を敷きつめたその底に、死んだアジアアロワナを寝かせ、その姿をいつでもながめることができるように、木箱の天井には透明なプラスチックの板がはめられていたはずだが、彼はそのちいさな棺桶とでもいうべきものを、しばらくのあいだ、学生服の内ポケットに入れて、毎日持ち歩いていた。